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橋本努講義「政治経済II」小レポート2007 no.2.

ときどき講義の最後に提出を求めている小レポートの紹介です。

 

 

法学部交換留学生 趙単童15067704

 最近、高校時代のクラスメートが結婚したとわかった。僕は日本にいるから、披露宴には参加できなかった。彼は僕の周りの知り合いに一番早い結婚した人である。彼は今年9月に、コロンビア大学の人類学に進学すると予定で、これからは学者の道を選んだ。ちょっと早すぎかなとみんな大体こう思ったのに。多分彼が選考している人類学と何か関係があるだろうとショックしながら、僕はこう思った。

 僕が所在していた高校は中国有数の外国語学校で、外国語教育に恵まれているクラスメートの半分以上もう世界各地で留学し経験を持っている。僕は高校時代病気で一年間休学したわけで、同級の皆さんはちょうど今卒業に迫られている。中国の大学生普遍の就職困難に対して、友達たちは順調にすべりだして、各大手企業に就職に成功した。そろそろ一年間の交換留学を終えて、帰国する私にはいろいろ考えさせた。

 この一年間の留学を通じて、日本の社会を理解しながら、法学に関する知識もいろいろ習得した。法学部の学生ながら、経済学にずっと興味があるから、経済学部の政治経済学、経済思想、公共経済学、企業論など多数履修した。この中に、特に橋本先生が講授している政治経済学でとても勉強になって、経済思想で学んだ内容を照らし合わせて理解を深化し、世界の政治経済について概観的認識した。いろいろ学説に感心するとともに、とくに、ハイエクの「貨幣発行自由論」は50年先の社会を想像したのであると読んだら、学者の偉さに感動の気はやめられない。でもやはりこの一年の勉強は不十分だと思い、大学院で続けて研究しようと妄想したこともあった。冒頭に述べた友達のように学問の道を歩む勇気がないけど。

 橋本先生も授業で中国の現状を何度も紹介した。何年前の大学院進学ブームより、いまの大卒生はもっと冷静で、真剣に研究と就職の利害を考量し始めた。高校の友達たちの中大学院に入ったのはただ二人だけ、近年の大学院応募人数も右下がりばかりだった。僕は北大へ留学のきっかけは北大の大学院へ進学しようだが、今は一年間の勉強を経て、この前の目標を見直した。単純の学歴のために、あるいは学位証書のために進学したくないのは、今僕の考えだ。いろんな知識の学んだ結果、将来は何をしようとはいっそうはっきりしなくなるけど、ただ学位取得の志向はしたくない。

 帰国してから卒業するまではあと一年。この一年間を利用し、じっくり考えようとしたい。チャンスに恵まれの偶然もとても重要だと思うけど。将来の進路は自分なり決めなきゃならない。たぶん、心の底にはもう答えがあると思う。これからもがんばって、先生のようにアメリカで勉強したい。

 やっぱり日本へ来てよかった。

 

 

経済学部経済学科 3年 森 大輔

坂口安吾の「堕落論」を読んだ。 以下抜粋
「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。」 「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。」 「先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己の真実の声をもとめよ。」 「堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。」 「堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。(中略)ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。」 「堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。」
日本の現状はどうだろうか。戦後日本が少なくとも経済的には堕落から這い上がったとして、現状はどうだろうか。 僕は現在の日本は、正しい堕落の仕方かどうかは別として、堕落の最中ではないかと感じる。それならこのまま堕落しきればいいかというと、そうはならないのではないか。安吾は戦後の日本人に対して「堕落しきって這い上がれ」と説いたが、そこには「敗戦」という明確な堕落が存立していた。が、現状の日本で全ての日本人が共通意識を持てる堕落はあるのだろうか。これだけ複雑、多種多様な堕落が乱立する現在では、国として正しく堕落しきることは可能なのか。 国としての堕落が不可能であれば、最早人間が堕落しきる他ない。そして、自らの堕落を認識する他ない。
 
自分はどうだろうか。これまでの人生において堕落は何度もあった。その度に堕落から這い上がったり抜け出してきたように思う。 要は、人生において堕落は一度きりでなく、何度もおこる。大事なのは、自らその堕落に気付くことなのだろう。恐いのは、自分の堕落に気付けなくなることだ。 自分の堕落を振り返ると、堕落したときは確かに孤独だった。それは、結局最後は自分自身とのたたかいになるという意味で孤独であった。 ダブルスクールをしていた時の自分は間違いなく堕落していた。自分の好奇心に嘘をついたという堕落。社会の価値観に安易に犯されたという堕落。 あの時堕落に気付くことができた自分は幸運だった。あのまま、これが正しいと自分を信じ込ませていたら、それはもう正しい堕落ではなかっただろう。 人間は生きていると、自然と堕落してしまうものなのだと思う。安吾の言うように、「人間だから」堕落するのだろう。 しかし、堕落があるからこそ、這い上がることも可能になる。人間に堕落は「必要」なのではないか。

 

 

「包摂主義と非包摂主義」

経営学科4年 若林聡実 2007430

<私の立場>

ヒューマニズム(社民リベラル)

<分析>

 包摂主義か、非包摂主義か?直感的には非包摂主義であった。その後の問題を考察するに、私はヒューマニズムの立場にあることが分かった。「自分のことは自分で、すべての個人は尊重されるべき」という考え方に賛同する。

 なぜ私はヒューマニズムの立場をとるか。それは私が育った時代的な背景と、家庭の環境にあると考えられる。第一に時代背景だが、ロストジェネレーションと呼ばれる、現在20代後半〜30代の若者が青春時代を送った頃、私は社会の動きに非常に敏感だった。ちょうど私が小学校に入った頃、バブルが崩壊した。そして小学校34年生の頃から「不況」という言葉をよく耳にするようになったと記憶している。円高が最高値を更新し、山一證券や北海道拓殖銀行が倒産。その失われた10年の時代の始まりから、私は毎朝5時過ぎに起き、テレビのニュースを見るのが習慣だった。そのため社会情勢を(小学生なりに)理解し、現実的な小学生であった。もし私がもう5年早く(つまりバブル絶好調の時代に)生まれていて、同じようにテレビを見ていたら、こうはならなかったかもしれない。

第二に家庭の環境を振り返ってみる。我が家は実にリベラルな家庭だと思う。核家族で、娘が3人。昔ながらのお家主義など女性を弱くするものだして育てられ、サザエさんは悪であり、現代の実情に合わないと教えられた。今でも母には『「娘さんをください』なんて言う男を連れてきたら、絶対追い返す」と言われている。こうした環境で育てば、キャリアウーマンも目指す女性に育つのも必然だろう。

 こうした立場から、私なりに授業に出てきた問題に対して意見を述べる。@派遣社員問題。ドラマ「ハケンの品格」は興味深く見た。「自分の時間を大切にしたい」という人は派遣社員という選択肢があってもいいのかもしれない。それを選ぶのは個人の自由である。「社員」である以上、賃金以外は同等の扱いをすべきである。Aマクドナルド問題。もはやマクドナルドの危険性は誰もが知っていて、マクドナルド自身もカロリーや塩分を公開している。Bたばこ問題。マクドナルドと同様で、個人の責任である。しかし、「喫煙する権利」があると同様に「喫煙(受動喫煙)を拒否する権利」もあるので、非喫煙者に対する配慮も同様に必要だ。受動喫煙を「してしまわない」環境を(居酒屋など)整備すべきである。Cグレーゾーン金利。金利は需要と供給によるもので、高金利でも借りたい人がいる以上仕方がないことだ。しかし、救済としての自己破産の制度のみ残しておく必要がある。

 

 

まとめ(2007712) 瓜生響子

 経済倫理上の主な争点の、自分の立場を表明していく。全体を通して、以前提出したレポートの内容と変るところはない。

 道徳は利益より優先されるべきものである。確固たる基盤があって初めて、利益というものは追求されうる。道徳を優先すれば、利益は追求できなくなるということはない。しかし、利益が優先されれば、道徳が失われることは多々ある。つまり、創造的破壊は社会の進化をもたらすかもしれないが、逆に社会の道徳を崩壊させ、秩序をも乱し、社会の上層部だけが機能するような結果となってしまうということである。しかしながら、ある主義において、道徳は本来の目的を隠すための道具となることがある。それには反対である。道徳は道徳そのものとして、存在せねばならない。

続いて、秩序としての善の安定を、原理としての善より優先すべきと考える。あまりにも公生視しすぎると、かえって悪くなることがあるからである。その例として、同一労働同一賃金の概念を雇用の際に導入すると、女性労働者や臨時や派遣労働者が雇用されにくくなるといったことがあげられる。また、前に述べたとおり、公正を貫くと言っても、貫き方は様々であり、現在正しくないとされていることも、公正だと言ってしまえば、それは公正になってしまう危険性がある。

X−2とY−2を比べると、X−2の原理的革命を支持する。原理的自由主義も保守派も極端すぎる。強者は没落すべきまでとは思わないが、弱者を救済しない限りには、社会の成長は見込めないと考えるからである。

自由な家父長制と人為的なリベラル制のどちらかを選ぶかというと、人為的なリベラル制である。この制度は悪いものは悪い、良いものは良いという考え方であるからである。内部告発が背徳行為なら、どんなに内部告発者が良いことをしても、その社会から抜け出さない限り、内部告発者は悪のままである。談合が許されるならば、一定の経済成長は望めるかもしれない。しかしながら、それは一部のことであり、一時期のことである。安定した全体の成長を望むのならば、人為的なリベラル制の方が制度として良い。

これまで述べてきたとおり、私が考える理想の社会とは、経済は一部ではなく全体が安定成長すべきだというもので、そのためには道徳が必要なのだ。道徳を扱うには政府の力が必要なのだが、政府の権力が大きすぎると、良くない方向に導かれたり、経済の成長は鈍化したりするので、やはり自由も必要となってくる。だから私は包摂主義であり、その中でも規律訓練権力が主義の中で最適だと考える。これは今述べたことと合致している。規制と自由のバランスをうまくとることが、社会の成長と安定への大きな鍵である。

 

 

2007年4月19日 『8つの倫理的な立場』 石井 睦美

私はこの「8つの倫理的な立場」のうち、「リベラリズム」を取った。

何故私がこの主義を取ったのかというと、確かに商慣行にならって身なりを整え、経済社会をその中で倫理的なものにしていくことも重要だと思うのだが、社会全体もしくは国全体の利益を考えたとき、経済制度にとらわれずに経済的合理性を追求して、創造的破壊によって慣習を打破し、社会的進化を遂げることのほうが必要だと思ったからである。さらに部分的に見てみると、「秩序としての善」の立場においては、たとえ強者が得をしたとしても弱者がより苦しむことになるくらいなら、現行の秩序を維持したほうがよいと思う。「原理としての善」の立場のように、公正を貫くうえで秩序を破壊してしまったら、弱者からの反発が起こって新たな弱者救済の手段を講じなくてはならなくなり、たくさんのコストがかかることになるだろう。コストがかかろうとも公正を貫こうとするこの立場は、現実問題あまり実践的ではない。さらに、この立場の原理的革命派の考え方も大きな問題点を含んでいる。それは、強者を没落させて弱者を浮上させていっても、結局今度は没落した強者が弱者となり、浮上した弱者が強者になるのではないかという問題であり、これでは根本的解決になっていないように思える。そして、例として挙げられているインサイダー取引について、これを一様に罰してしまうことは必ず不合理に罰されるものが出てくると思うので、あまり賛成できない。次に「人為的リベラル制」の立場についてなのだが、従来のように内部告発者が非難され、社会的立場を失ってしまうのは社会の利益を追求するうえで正しくないと思う。不正を見逃せば、確かに個人もしくはその企業の利益は得られるが、それでは競争によって企業同士が淘汰されていくことやその結果として国が発展していくことが難しくなるだろう。そして最後に「非包摂主義」の立場についてなのだが、企業は自らの信条でもって長期的な視点で自由に行動するべきだとも思うし、短期的利益を目指すにしてもいずれは市場で淘汰されるものだから、企業の判断において行動させるべきだと私は考える。

しかし、自分の立場と社会的な立場は乖離しており、若干の矛盾を感じる部分もある。その1つが「秩序としての善」の立場についてである。ここで例として出されていた、銀行を救済するかという問題に対して、秩序派の立場では取り付け騒ぎという混乱を避けるべく銀行を救済すべきだと思うが、私は銀行だけが優遇されるのは納得がいかない。他にも経営難に陥る企業はたくさんあるのに、銀行だけが政府の援助を受けられるというのは不平等だと思う。また、女性労働については安定成長派の立場では男女の同一労働同一賃金には反対ということになる。しかし、この問題については、私は女性として「原理としての善」側で賛成という立場を取りたい。というのも、同一労働同一賃金が主流になると女性の採用が減ってしまうということから、それならば労働や賃金に男女格差があっても、せめて対等に雇用してもらいたいと思う。そして、私が感じる矛盾の2つ目が、「非包摂主義」の例として出された解雇権を企業が持つべきかどうかということについてである。この立場では企業は納得しうる理由があれば、使えない社員を自由に解雇してもよいという考えになるが、家族を持っていたり、様々な事情を抱えた正社員を簡単に解雇してしまうのには反対である。

このように、社会的立場と自分の立場には、やはり乖離があると言わざるをえない。しかし、総合的に見ると「リベラリズム」の立場をとることが社会的に望ましいと私は思う。

 

 

2007年6月28日 『親からの精神的自立』 石井 睦美

 私は今回このレポートで「親からの精神的自立」について述べたいと思う。

まず、私は大学に入るにあたって、距離という物理的な要因により、親からの自立を求められた。それはつまり「1人暮らし」をするということであり、それまで様々なことを親に依存していた私は単身、半ば強制的に家事や全てのことを自己で行う義務を負った。しかし、いくら「これは誰もが通る道なのだろう」と考えても、初めのうちは慣れない生活に戸惑い、親を呼び寄せることが何度かあった。幸い、私の実家は道内にあり、時間はかかるものの全く来ることができない場所にあるということはなかった。今思えば、それもすでに甘えだったのではないかと思う。道内の人間はともかく、北大に通う様々な本州出身の友達を見ていると、彼らは呼んだからといって来ることができるような場所に親はいなく、入学したての戸惑いも自分で乗り越えていたのだろう。というより、本州から北海道に来るという時点でそれなりの覚悟なり強い意志なりがあったようにも思える。それに比べて私は本州の大学に行くのを嫌い、なるべく実家からも近い北大という場所を選んだ。そのときの私は無意識だったのだろうが、大学選択の際に本州というまったく環境も何もかもが異なる場所へと行くことを拒絶し、むしろ恐れまで抱いていたように思う。もしかしたら、普通は「親」という束縛を解かれ、自由になれるという点で意気揚々と一人暮らしを始める人もいたかもしれない。しかし、私は人より親への依存度が高かったこともあって、素直にその親と離れて得られる自由というのを楽しむことはできなかった。確かに友達といるのはすごく楽しかったし、サークルでの仲間も増えたこともあって、初めは頻繁に誰かの家や駅などで時間を気にせず遊びほうけていたこともあった。しかし、それでも1人家に帰ってきたときは、やはり部屋に誰もいない喪失感を感じ、悲しみを覚えた。それも時間がたつにつれて慣れが生じてきて、3年目となった今ではそういう気持ちになる頻度も確実に減ったようには思うのだが、ここで「人がいない喪失感」ではなく、「家族がいない喪失感」を感じている私はまだ「親からの精神的自立」ができていないのだろうか。今、私が3年生になって就職ということを真剣に考えるようになって、「親からの精神的自立」を通り越した「親からの経済的自立」という問題が突然目の前に現れることとなった。まだ「親からの精神的自立」さえままならない私が、今度は「親からの経済的自立」を迫られている。この事態に直面したことによって、やっと私はまず「親からの精神的自立」を本気で目指さなければならないということに気づいた。そして、この精神的自立について深く考えることによって、私は1つ誤解をしていたことに気づいた。それは、今まで私は精神的自立というのを「親を捨てる」というような否定的な意味で捉えていたことだ。私は1人っ子だったので、昔から両親という存在はとても大きく、心の支えになってくれていたのも確実に両親だった。だから、精神的自立をすることによって今まで自分を支えてくれていた両親を見捨てることになるのではないかと勝手に考えていた。しかし、それは大きな勘違いで、今では精神的自立をすることがむしろ心にゆとりを持った状態で親を敬うことにつながるのではないかと考えている。つまり、精神的自立というのは、まさに自分が一回り大きくなって、抱えられる荷物の量が増えることなのではないかと今私は思っている。だから、私は少しずつ自分の意識を変えていくことによって自分の懐を大きくし、自分自身も大きくなる自立を行っていきたいと思う。

 

 

経済学部経営学科3年 脇坂 祐太郎

 これまでの小レポートから、自分の中で一貫した意見を導き出すことができた。それは、道徳を重んじる姿勢であり、この講義を通しても、利益よりも道徳を追求するべきだという気持ちは変わっていない。ただし、道徳を追求すると言っても、その方法は様々であり、どれかひとつが正しいということは全くない。平等を尊重するか、自由を尊重するかによっても、国の在り方、人の在り方も異なる。

 第1回の小レポートでは、質問に答え、八つの倫理的立場に分けられる。ここで私は「地域型コミュニタリアニズム」に当てはまった。個人の自由を尊重するリバタリアニズムとは異なり、共同体の価値を重んじる思想であり、地域では公正や平等という部分を重要視し、国家という大きな枠組みの中では、安定や成長のためにそれを求めない。現在同じ質問を答えるとしても同様の結果が得られるだろう。むしろ、講義の中で、世界の人口の一握りの者たちが、世界の富の大部分を手にしているという事実を知り、どの国家、どの地域においても、最低限度の生命の保障はされるべきであり、その権利は誰でも持ちうるものであると思った。よって、前回よりも更に強く、個人の平等は必要であると考える。

 第2回の小レポートでは、国家が積極的に介入し、弱者を救済していくべきだという包摂主義こそが平等であり、国家全体の幸福に繋がると考えた。これは第1回と同様であり、高所得者は重い税金を負担して、国家の福祉を充実させるべきである。国内だけではなく、世界中においても同様に、食糧不足で苦しむ地域を富のある地域が負担し、最低限の保障をすべきではないだろうか。もちろん、利益を追求し、富を蓄えたいと思うことが個人のモティベーションを高めることにもなり、その企業、地域、国家の成長や発展にも繋がり、国家が介入し、格差をなくそうとすることには反発も多いだろう。よって、国家の積極的介入は、現実では困難である。しかし、途上国は利益を得るために、国内の人的資本を開発するように促すことができる案が存在する。それは、デマルティーノの関税体制案であり、問題点はあるが、改善させることができれば国家が国内の貧困や格差問題の是正のために積極的に介入することも考えられるだろう。しかも、それが、国家の成長や利益に繋がるというのであれば、反発も少なくなるであろう。

 内容は自由ということで課された第3回の小レポートは、非現実的な考えではあるが、自分の中で世界の貧困について、加えて、自分が今後どのように生きていきたいかについても考えることができた。

 この3つの小レポートを通じて、軸となる考えは変わっておらず、自分の中でその考えが深まったという印象である。

 

 

高橋桃子

 まず、@派遣社員問題について論じていく。私はサバイバル型に共感した。派遣社員は福利厚生がないなどのデメリットもあるが、休日稼ぐには大変都合が良い。あくまで、副業としての派遣社員の枠は拡充しても良い。それも能力給にすれば尚良いと思う。正社員を増やすことを国家が介入すべきなのであろうか?正社員の職に就けない方は、正社員になるための知恵を身につけるべきであろう。派遣を肯定しすぎると格差は広がり、派遣会社の搾取の率も大きくなるが、派遣会社というものは、雇用者労働者双方が、割り切った関係で労働契約に合意するものだと、私は考える。ただがむしゃらに「正社員になりたい」と叫んでも無駄なので、なるためのテクニックも、今の社会を生きていく上では重要だと考えるこれでは世の中腐敗するという御意見もあろう。しかし私は世の中を変えるための労力を使うより、自分を変化させるタイプなので現状を変えず、国民が賢くなるべきと考える。

 次にAマクドナルド問題について論ずる。やはり、この問題もサバイバル型に共感した。

マクドナルドの商品摂りすぎ=肥満になる、この程度の知識は肥満を意識する年代の方では、ない方が珍しい。であるから基本的に、理性的には食べる分量はコントロールできるはずである。しかし、もし病気になったら、社会保障の観点では公的扶助が必要になると思われる。ヒューマニズム型でも決して悪いとは思わない。でも私の考えでは、サバイバル型が最も自由だと感じるので、そこに共感した。何事も自己決定、自己責任が最も自由だと思う。

 次にBたばこ規制問題について論ずる。この問題についてはヒューマニズム型である。

サバイバル型なら自由に吸って構いません、自己責任でだと予想していたが、吸えないので却下する。それは自由ではない。たばこは健康上、死に至る病に直結するところが、マクドナルド問題と大きく異なる。ガンの治療費は莫大なので、それについては治療費を出すシステムがあった方が良いと考える。吸うのは自由だが、やめたくてもやめられない人のためのプログラムを提供するのも共感できる。主体化型と、ヒューマニズム型は、吸うか吸わないかの前後が逆なだけで、政府がお金を払って吸う自由を保障する点は共通である。「吸う」という自由が得られるのはこの2つであり双方とも共感できる。

次にCグレーンゾーン金利問題について論ずる。この問題が最も人命に直結していると感じた。ここはヒューマニズム型に共感した。なぜなら、借金で破滅する人の殆どは、金融、法律の知識がない。先に述べた、マクドナルドの商品摂りすぎ=肥満、この知識は大抵の人が持っているが、金融の知識などは、持ち合わせていない人も多いと思う。逆に消費者金融の人間は知識のない人の弱みを見抜いているし、亡くなられても構わない人が大半であろう。法的には、サバイバル型も許される行為であるが、人命を奪うのは良くないと考える。自殺者を増やさない目的で取立てを工夫し、違法な取立ては禁止するに共感する。

 次にD会社は誰のものか、について論ずる。これについては、主体化型に共感する。残業に振り回されるのではなく、時間の自己管理をさせるのが良いと思う。過労死すると遺族が大変であり、例え争って勝っても大したメリットもない。会社と雇用者がお互い不幸にならない選択は主体化型と考えた。

 全体的に、私の考えは利益優先である。一貫して、サバイバル型でも良いとすら考えた。しかし、じっくり考えると、少しは愛がないと、社会的に幸せにはなれないという結論になった。その辺のバランスが難しく、利益型だと無慈悲、道徳無視な考えに行き着き、また、道徳型だと、現実性のない敗者型の人生に傾く。その中で、私は多少責任が重くても自由を選択していることに気づいた。

 

 

角谷有介 712日提出

自分は経済倫理上、道徳、安定・成長、自由な家父長制、非包摂主義の選択をとる新保守主義が良いと思う。それには理由が3つある。

第一に経済を安定させておくため、新しい思考や方法、慣習というものを積極的に取り入れていくのではなく、むしろ過去の人々が作り上げてきた伝統といったものを守っていくべきだと思うからである。例として挙げられていた商慣行や国による民間銀行の救済というものは、ルール上正しい行為であるとは言い難いが、長い間暗黙の了解として行われてきたことによって日本の経済状況は何度か大きな危険を経験したこともあったが、結果として現在は諸外国に比べると安定的ではないだろうかといえる。戦後の大不況やオイルショック、バブル崩壊などの大打撃にあってもなんらかの形で伝統を守ることで切り抜けてきたと思う。しかしながら伝統を守るのでは無く、むしろ新しいことを取り入れていくことはかなり不確実であり、かえって経済に悪影響を与えてしまうきっかけとなるのではないだろうか。たとえばライブドア社の堀江氏のように法律の抜け穴を探して商売を行うことは、彼個人にとっては大きなビジネスチャンスではあったが、他の大多数にとっては裏切りというか卑怯というか、なんらかの形で経済的に大きな損害を受けたに違いない。また日本の近代史で習ったのだが、政府が大銀行の救済を行わなかった場合の被害は日本全体に波及し世界に対して日本の経済の脆さも露呈していたのではないかと思う。また男女の賃金格差があることにより実は社会全体の雇用のバランスが非常にとれているのでいまから賃金を平等にするのはむしろ現在の安定した経済のバランスを崩しかねないと思う。このようなことが起こらないように自分はこの立場をとる。

第二に政府は銀行救済などの必要最小限のことだけを行い、それ以外には積極的に干渉しないような小さな政府を目指すべきであると思うからである。これは主に非包摂主義の立場を推す考えである。たとえば有害図書の認可や優先雇用を義務付けない、解雇権の強化などであるが、これは昔から変わらずに行われてきたものである。最近はこういったものを政府がどうにかしようと動き出しているが、どんどん干渉を広げていくことは現代の社会に制限や規則を増やしていくことになり、国民の生活を不便にしていくと思う。今政府は地方分権化などを通じ、政府の干渉をなるべく少なくしていこうとしているので、これに逆行するように積極的に干渉をするのは反対である。こういったことをするのは政府の財政を圧迫したり、国民の不満を高くしたりとよくないのではないだろうか。そのため、非包摂主義をとるのである。

第三に自分の所属する共同体を大事にするべきだと思うからである。会社、学校、家族、などの共同体は非常に大事である。共同体というのはさまざまな目的を達成する場所であり、たとえば個人にとってはやりがいを見つける場、新しいものを学ぶ場、心身の癒しを見つける場、人とのつながりを得られる場、などであり日々の生活を送る上でなによりも大事にするべきである。人は一人だけでは生きていくことができないという言葉があるように、どこかに属していないと個人は生活をしていくことができないのである。このようなつながりを大事にしようとしているのが商慣行であったり、談合であったり、コネクションであったりする。こういったものは世間一般には後ろめたいことと捉えられているが、それと同時に実は我々の生活には不可欠な必要悪でもあると思う。無駄に正義を掲げてこのようなものを積極的に取り締まるのではなく、むしろ寛容に見ていくだけで十分であると思う。

 以上のような理由から自分は前述の立場をとる。

 

 

7月2日提出712日推敲再提出

経済学部経済学科3年中村俊介

 私が政治経済学のレポートとしてまとめるものは、大学生活中のバイトを通じて考えた人に教えるという作業についてである。人に教える作業の重要さ、貴重さ、それに反してその作業の困難さは最近よく取り上げられており、ビジネス書では管理職のための部下の指導の仕方、叱り方が特集され、それが人気を呼んでいることからも教えることの重要さがクローズアップされていることが分かる。これは、そのことを身を持って味わった私のバイト先での体験である。

 私は1年生の頃から市内のレンタルビデオ店で働き始めた。そこでは、同じアルバイトの先輩スタッフから職務内容を教わることになっており、私も丁寧に教わった。その先輩のとった手法というのは、一つ一つ仕事を実際にやってみせながら私にメモをとらせるというものだった。一気には教えることはせずに、実際のケースに遭遇するたびに私を呼びメモを取らせた。クレームのような難しいケースでも同じであり、立ち合わせ、その後にメモを取らせた。私はこの方法で少しづつではあるが、着実に仕事を覚え任される仕事もだんだんと増え、中心へと育つことができた。この方法は入店から数ヶ月が経っても新しいことが起こるたびに同じであった。

 そして、1年半近くの時間がたちその先輩もバイト先を去り、私はだいぶ仕事を覚え今度は仕事を私が後輩に仕事を教える立場に変わっていた。その際に私は人手が足りないという事情もあり、早急にその後輩を一人前に育てたいと考えていた。そこで私は基本的な業務内容、ケース別の対応法をメモ書きしてコピーし、後輩に渡した。こうすることでこの後輩だけでなく、今回以降の新人育成にも使え合理的と考えたためである。また、私を先輩が教えた時のようにメモを使うことで1度対応したケースにはそれを見返すことで対応でき、教え方としても効果的であると考えたためである。しかし、結果としてはその教え方は失敗であった。確かにそのメモを見ながら作業を行うので、作業自体は遂行されるが、自分の物としていないために作業自体の進み方が遅いのである。また、クレームへの対応もメモに載せてあるままのケースなら対応が可能になるが、少し違ってくると対応できない、また対応してもその対応がまずく混乱を招いたという事態も発生した。

 合理的であり、早急な新人の育成のためには削除しても良いと判断した、実際に業務に立会いメモを自分でとると言う作業が実は仕事を教える、覚えるという作業のなかでは本当に重要な点だったのだ。私はこの一連の体験の中で教えるという作業の困難さを痛感し、考え直させられた。人間相手の仕事は速く、迅速に遂行するだけが的確ではない、回り道ではあっても必要な道を近道することはできないのだ。

 

 

19712 早坂友花

八つの論理的立場

 私は、リベラリズム(福祉国家型)に分類された。

 なぜこのように分類されたのか、ということを順に検討していく。

 まず、利益と道徳という二つの視点から検討したとき、利益のみを追求しすぎることは危険であるが、経済の発展を考えるのであれば必要なことだと考えた。道徳だけでは、経済の発展は起こらないだろう。また、企業は経済的合理性を追及しうるという点に賛同した。

 秩序としての善を選択した理由は、特に成長派の意見に賛同した。国民経済の持続的発展という観点から望ましい政策を判断せよ。という点について、持続的発展という視点から、社会を秩序立てることは必要だと思った。一方で、公正を貫くことに対しての重要性を感じなかった。

 人為的リベラル制に賛同したのは、まず、内部告発者の救済は必要な行為であると考えた。外部ではなく内部の者から告発があるということを前提に経済が組み立てられているのであれば、不正を防止することにも有用だろう。優れた入札システムの開発とは、どういったものであるか疑問はあるが、そういった開発が可能なのであれば一刻も早く作り上げるべきであり、制度として導入すべきであると思う。家庭内の封建道徳は、個人の私的自由であるということももっともであると思うが、方向性という形で、男女対等社会の奨励という前提が設けられればさらに良いと感じた。この点ついては、どちらかといえば人為的リベラル制の主義に賛同であったので、選択した。

 最後に包摂主義を選択したのは、包摂主義を「主体の自立化」のための温情的な措置と捉えた上での選択である。非包摂主義で示される自由は社会は人と人とのつながりの上で成り立つと思うので、ここで述べられる自由がなされた社会を危険に感じた。制約のない社会において、人々が周囲を思い活動することは難しいように思う。よって、非包摂主義に賛同することができないと考えた。政府の介入は、方法さえ間違えなければ非常に強い力となり、必要不可欠なものであると思う。そのために、政府が国民をどれほどに理解し、制度を作っていくことができるかが重要だと思う。そして、私たち自身も、政府を理解することが重要であろう。

 

 

大学改革論 (7/16 提出)経済学部3 山石夏海

 今の日本の大学は、入るのが難しく、卒業は簡単とよく言われる。これに対して諸外国の大学はどう言われるか。日本と全く反対で入るのは簡単だが、卒業するのが難しいと言われている。さて、これはどちらが正しいのか、それは定かではない。だがどちらが望ましいかと言われれば、私は間違いなく諸外国に見受けられる入るのは簡単だが、卒業するのが難しい大学のほうだと思う。

 なぜそう思うか、単純である。日本のような大学は、大学の意味がないように思われるからだ。大学の意味がない、というと語弊があるかもしれない。大学に通う意味がない、と言ったほうが正しいだろう。今の日本の大学生は大学に合格して何を思うか。合格したことへ対しての素直な喜び、キャンパスライフへの憧れ、充実した日々への期待様々にあるだろうが、必ずこうも思うはずである。「大学に入ってしまったからこっちのものだ」と。入れば自由な生活が保障されている、といえば聞こえがいいかもしれないが、「入って自分の好きなこと以外何もしない、楽に過ごす」と言っているのと同じではないか。

確かに高校と大学の大きな違いは、選択肢の多さと自由さにあるだろう。大学では自分の好きなことを、自由な時間・ペースでやればいいのかもしれない。しかし私はそうは思わない。先に挙げたことを続けていけば必ずどこかでつまり、自堕落な生活を招かざるを得なくなるだろう。何か物事を成し遂げるためにはある一定の決まり、期限、性質、そしてそのための負荷が求められるように思うからだ。それではそれすらも自分で設定して、何もかも自分で行う、こういったことが出来ればこの問題は解決されるのではないか。しかしそれは不可能というものだろう。大学に入学するまでの間、義務教育でそのような素養が身につけられているとは到底思えないし、そもそも高校ではそのような教育はしてきていない。高校で行う教育と言えば、先の高校における履修単位不足問題も示していたように、大学入試をどう攻略するか、これだけである。

このように大学入試が難しいという事実は様々な悪循環を引き起こしている。大学入試が難しいから高校の教育も限定される。その結果大学が求める知識を持った学生が入学してこようとも、求める人間性を持った学生が入学してくることはあまりなさそうに思える。私は、これは非常に考慮されるべき問題だと思う。外国のような様式(入るのが楽で、卒業は難しい)にすれば全てが解決されるわけではないが、卒業が難しいという負荷によって、個人の取り組みは大きく変わるだろう。自由度が高くても、最後の狭き門をくぐるために努力は欠かせない。

それでは日本で直ぐにこのような様式を取り入れられるかといえば、それは否だろう。古くからの様式をそんなにすぐ変えることはできないだろうし、大学が変わるということは、それ以前の義務教育も変わってくるということを示しているからだ。これからの有効な手段としては、授業で挙げられていた、34年進級時にテストを課すなどといったことなのかもしれない。しかし私がそれ以前に重要だと思うことは、やはり義務教育の改革である。大学に来るまでに様々な側面に対しての広い視野と豊富な知識を持つということが今一番求められているのではないか。そうしないと大学の改革は無理だろうと感じた。

 

 

隼人74

 日ごろから思ってはいるが深く調べる機会もそんなつもりもない理論や空論、ある種の妄想について書いてみようと思う。

1.

 われわれ人間は実存ではない。ほぼ確実に。まず人間の組成はデータに変換できる。どの元素が相対座標でどの位置にある、といった具合に。もしかしたら魂と呼ばれるようなものが存在するのかもしれないがそれについては考えない。ある人物をデータに変換すれば、PC内にその人物のコピーを作成することができる。果たして同一の自我を持った存在なのかどうかは分からないが、まったく同じ組成を持つのだからおそらくそうなのだろう。

 これの応用として、多くの人間(もちろんそれらが存在する背景となる宇宙や惑星、ひいては虫の11匹までも)が自動生成され、PC内に人間社会を作り出すことが、少なくとも理論的には可能である。これは私の希望的観測だが、今の勢いで技術が進歩し、量子コンピュータなるものが開発されでもしたら、そう遠くない未来に我々でも到達可能な領域ではなかろうか。また実現可能なことだと分かれば現実のシミュレーションとして非常に重宝するので、利用しない手はないだろう。

たとえばここにひとつの仮想世界が作成できたとする。その瞬間、我々も実存ではない可能性が生まれる。それどころかほぼ確実にそうであると証明される。当然だ、作成された存在はつまるところ人間であるわけだから独自に考えることが出来、いずれは技術を発達させて更にその下の次元の仮想世界を作成することが可能であり、膨大な下位次元が作り出されそこに住む人間の数も非常に大きくなるだろう。この連鎖のうちではいわゆる「最初の人々」はごく少数(割合にしては限りなく0に近い)しかいないことになるのだから、確率の法則により、ここにいる我々は「最初の人々」ではなく、PCの中のPCの中のPCの中のPCの中のPCの中ぐらいに生成された仮想生命体だということだ。

そもそもこの考えは、「なんで人間ってこんなうまくできているのだろう」という問いをじっと考えているうちに思いついたものである。しかし結局この問いの本質自体には答えられない。そもそもこの考えの結論としては我々にとって創造主となる存在がいて、更にその神(といってもよいではないか?)にも創造主がおり・・・最終的にはごく少数の実存の人間(と呼べる存在かどうかは知らないが)がいる、ということになる。つまり何者かの設計図に従って作られているからうまくできていて当然なのだ、と。しかし、ではその頂点、最初の人々はどうしてそんなにうまくできているのか。少なくとも我々と同等以上の知能をもち、技術を進歩させ、我々の遠い先祖となった彼らは。つまりそういうことで、人間を作った神がいたとして、その神はどうやって存在したのか、誰かが作ったのであればその誰かはどうやって存在したのか、自然発生というしかないのか、ではそのための物理法則はどうやって存在しているのか。人間にとって本当に知りたいことは決して分からないようにできている、と昔の詩人が言ったが、どうやら本当のことのようだ。

2.

なぜ宇宙人は地球にやってこないのか。いや気が狂ったわけではない。実際のところ、この広い宇宙に知性をもつ存在が我々だけであるとはいささか信じがたい。少なくとも我々のようなプロセスで誕生した生命はそれほど稀有なものではなく、我々と同程度の知性をもつ生命体が存在することも十分期待できるのではなかろうか。事実、エンリコ・フェルミという物理学者がある時この話題について触れている。彼は概算を非常に得意とし、何のデータもなしにニューヨーク市内に住んでいる虫歯持ちの人間の数をすら事実と遠からぬ数値ではじき出すことができるほどだという。その彼の概算では地球に何らかのコンタクトを取れる技術を持った生命体は、それが可能な距離内にいくらでも存在しているはず、という結論に達する。実際のところ私としてはただそれを信じるしかないわけだが、感覚的に考えてもやはり地球のような惑星があってそこに我々のような生命が存在していることは宇宙ではありふれている出来事であると考えたほうが自然のような気がする。自分たちだけが特別であるという考え方で人間は何度も真実を見誤ってきたのだから。しかしありふれているはずの宇宙人からは何の音沙汰もない。それについての答えをいくつか考えた。

・地球は「未開惑星」として銀河間条約で指定されており、地球への干渉は禁止されている。

・現実はこのレポートの私の妄想1.のような状況であり、つまり我々の神がシンプルなケース(住みよい惑星は一つだけ、知的生命体は一種だけ)に設定してソフトウェアを起動したのであるから、当然私たち以外にそんな生命体は存在しない。

・我々は皆宇宙人だ。どこぞの銀河から偉い人が種を持ってきて地球にまいて、それが我々人間という存在となった。種を持ってきた存在は、実験のためか別の目的かは分からないが、我らに干渉しないようにさせないように努力している。

・宇宙は少なくとも今のところは冥王星あたりまでしか存在しない。そこから先は「あるように見える張りぼて」である。試験管の中で実験をしているようなものだ。もし我々の技術力が探査機を太陽系外まで飛ばせるようなところまで進歩したならば、理科の先生がその先の宇宙も作る。

等々である。私としてはやはり「人間バーチャル説」を推したい。神様がちょっと数値をいじって私を稀代の天才にしてくれはしないかと日々期待に満ちた生活を送っている。

 他にも多くのくだらない妄想があるのだが、思いつかないし紙面も足りないのでこれまでとする。話半分に笑っていただければ幸いだ。

 

 

本名 梢 200779

ポリティカル・コンパス「ポリティカル・コンパスに基づく社会問題の考察」

 以下の五つの社会問題を、ポリティカル・コンパスに基づいて考える。第一の問題は派遣社員問題だ。この問題に対する私の考え方はヒューマニズム型だ。人は過度に甘やかされると怠惰な勤務態度を取るようになり、生産性が落ちる。すなわち祭司型の対応のように完全に正社員化したり、主体化型の対応のように残業代の完全支給制をしたりすると、社員は会社に甘えて、大して働かないくせに給料や残業代を貰おうとする。これでは経済は成長しないし、また勤務時間中一生懸命働いている人に不公平感を与え、不平等な社会になってしまう。一方、将来の保障が全くない労働環境は、人々を身体的にも精神衛生的にも非常に不健康な状態にさせる。すなわちサバイバル型の対応のようにあらゆる雇用形態を認めると、社員は常に解雇宣告に脅えながら、解雇されまいと身体を酷使して働かなければならない。これでは世の中が死に体の者や実際に死を選ぶ者と人生を謳歌する者に分かれた、不幸な社会になってしまう。そこでアメもムチも与え、かつ人権を守るヒューマニズム型の対応を取るのがふさわしく、経済の成長と公平な社会を実現できる。

 第二の問題はマクドナルド問題だ。この問題に対する私の考え方は主体化型だ。なぜなら、私は現代の広い世の中では、人は自分に責任を持って生きるべきだと考える一方で、政府には国民を守る義務があるからだ。家族のように狭い空間なら完全に依存した生き方は許されるし、他者とのつながりが強かった昔の社会なら可能な生き方だが、現代社会は人間関係が広範で希薄なため不可能だ。祭司型の対応は、一方的に食に対する考え方を押し付け、食生活を強制している。主体化型の対応のような、共に食生活を改善する姿勢が大切だ。一方サバイバル型の対応では問題の解決になっていない。ヒューマニズム型の対応は表面上の解決にすぎず、根本的な解決には至らない。なによりも人々に責任を持たせていない。この場合の、人々に責任を持たせることの意味は、国家の財政的な問題ある。すなわち治療費を増税以外の方法で(税金の形で国民に負担を求めては、無償の治療保障にならない)全額確保することは不可能だ。

 第三の問題は煙草問題だ。この問題に対しても私の考え方は主体化型だ。理由は第二の問題で述べたのと同じだ。祭司型の対応は、国民を国家に依存させたまま解決しようとしている。煙草は中毒だ。継続していることをその人の意に反して止めさせることは、権力をもってすれば容易だが、その人のその後の精神状態は悪化する。ガン治療のための出費は抑えられても、精神や他の臓器の治療費は増大する。ヒューマニズム型の対応は、第二の問題同様、根本的な解決になっていない。サバイバル型の対応は、都市部の勤労者に祭司型と同じ精神的苦痛やそれに伴う身体的苦痛を与え、一方で都市部以外の勤労者の健康への配慮を欠いている。そもそも煙草規制(禁止)は、煙草の健康への悪影響が医科学的に証明されていることを踏まえると、健康の観点から行われるべきだ。結果的に煙草によるガン発生率が低下すればそれは好ましいことだが、その過程で別の健康被害を引き起こすことは好ましくない。

 第四の問題はグレーゾーン金利問題だ。この問題に対しても私の考え方は主体化型だ。理由も第二・第三の問題で述べたのと同じだ。祭司型の対応は、最低限の生活資金を必要としている人に貸し付けるとは、政府は国民を守る義務を果たしていない。低金利の貸し付け以前に様々な生活保障の問題だ。また自分で破滅の道を選んだ人への貸し付けは単なる甘やかしに過ぎず問題の根本的な解決になっていない。それどころか、計画的に健全に時には我慢もしながら生活している人々に対して不公平である。この祭司型の対応の前半部分の不備は、サバイバル型の対応にも当てはまる。一方後半部分の不備は、政府の貸し付けによる不公平はないが、ヒューマニズム型に当てはまる。根本的な解決とは、主体化型の対応のように、主体的に借りていない多重債務者を出さないことで、政府は自立できない貸し方を禁止し、現実的な返済計画を立てさせる必要がある。

 第五の問題はホワイトカラー・エグゼンプションだ。この問題に対する私の考え方はヒューマニズム型だ。効率的で効果的な職場環境は経済を成長させる。能力のあるホワイトカラーは主体的に効率的な職場環境を決め、効果的に職務をこなす。一方ヒューマニズム型の対応では過労死認定にも重点を置いているので、能力があるからといって仕事を大量に押し付けられたり、能力のないホワイトカラーが処理しきれずに働き過ぎるはめになったりしない。むしろホワイトカラーの能力が真に分かって良い。祭司型の対応は、個人の勤務形態の選択の自由を奪い、効率的な職務遂行がもたらす経済成長の可能性を潰している。主体化型の対応は、主体的に時間を自己管理させるとしながら、能力のある者が主体的に時間を管理することを認めておらず、矛盾している。サバイバル型の対応は、経済成長は望めるが、ホワイトカラーの過労死対策を欠いており、命と引き換えに経済成長を遂げる不幸な社会を実現させてしまう。

 このように私は、とられる対応が表面上の解決でなく根本的な解決につながるもので、かつそれが、現代の広い世の中では、人は自分に責任を持って生きるべきである一方、政府には国民を守る義務があるという考えに基づくアメもムチも与え、かつ人権を守る対応であるべきだと考える。